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色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載5 色彩から抽象絵画へ
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【図版】 ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マック《反射による色彩遊戯》1923

 色彩音楽は、抽象的な色光の運動を投影するものだったから、スクリーンに運動イメージを投影する映画と結びつくのは必然的だった。色彩音楽は、抽象映画(抽象アニメーション)になった。色彩音楽と同様に抽象映画は、前衛芸術運動と連動して発展している。

 最初に抽象映画を制作したのはイタリアの未来派である。未来派の画家だったアルナンド・ジンナとブルーノ・コッラは、色彩音楽の実践としてライト・オルガンの開発を試みるが、その後、映画による「色彩交響曲」に着手した。しかし、コマ撮りができるカメラが見つからなかったため、直接フィルムを彩色し、1910年から1914年にかけて『色彩和音』『4つの色彩による効果の研究』『春の歌』『花々』という4本の抽象アニメーションを制作したといわれる。しかし、1943年のミラノ爆撃で破壊され、作品が現存していない。

 現存する最古の抽象映画は、ドイツで生まれた「絶対映画」である。絶対映画は、カンディンスキーが抽象絵画を「絶対絵画」と呼んだことからの転用で、純粋抽象のアニメーションを指す。作品としては、ヴァルター・ルットマンの『光の遊戯:オパスⅠ』、ハンス・リヒターの『リズム21』(ともに1921)、ヴィキング・エッゲリングの『対角線交響曲』(1924)が知られている。モノクロでサイレントの映画が主流だった当時、ルットマンはフィルムを彩色し、友人のマックス・ブティングが作曲した音楽をつけていた。リヒターとエッゲリングはダダイズムの画家で、音楽を絵画で表現する探究から映画に向かっている。映画はモノクロのサイレントだが、音楽を意識していたことはタイトルから明らかである。

 絶対映画を色彩音楽と結びつける発想は早くからあった。たとえばモホリ=ナギは、〈バウハウス叢書〉の『絵画・写真・映画』(初版は1925)で、スクリャービンの《プロメテウス》やウィルフレッドのクラビルックスに言及し、「この方向での重要な進歩」としてルットマン、エッゲリング、リヒターの抽象アニメーションをあげた。同書でナギが詳しく論じたルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックの《反射よる色彩遊戯》(図、1923)は、当時バウハウスでおこなわれたスライドによる色彩音楽のパフォーマンスである。

 絶対映画はそれまで上映される機会がほとんどなかったが、1925年5月3日と11日、ウーフォの主催で〈絶対映画〉と題した特集上映[1]がベルリンで開催されて話題となった。この上映会によって絶対映画という名称が広まったのであり、絶対映画の存在を世に知らしめる役割果たした。プログラムは、ルットマン、リヒター、エッゲリングの作品の他に、マックの《反射による色彩遊戯》の公演、ルネ・クレールの《幕間》、フェルナン・レジェの《バレエ・メカニック》(《反射による色彩遊戯》以外は、ともに1924)といった純粋映画も上映された。

【註】

  • 「国際アヴァンギャルド映画上映会」などと呼ばれることもある。

(西村智弘―2025.1)

B/N(連載バックナンバー)


色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載1:色彩音楽とは何か
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【図版】カステル神父「視覚クラヴサン」

20年以上も前のことだが、わたしはある雑誌に「日本実験映像史」を連載したことがある。連載の一回目は「劇場の三科とダダ映画」であった[註1]。「劇場の三科」は、1925年5月30日に前衛美術グループの「三科」が築地小劇場でおこなったパフォーマンス公演で、大正期の新興美術運動でもっともラディカルな試みといわれる。なぜ「日本実験映像史」で取り上げたかというと、演目のひとつである吉田健吉の『釦(ぼたん)』のなかで「ダダ映画」と銘打った作品が上映されたからである。『釦』は舞台劇だが、前衛映画を組み合わせる実験的な試みをおこなっていた。
 『釦』のフィルムは現存しないが、作品に関する証言は残っていた。わたしは、『釦』がどのような作品かを振り返るとともに、「三科」の中心メンバーだった村山知義と映画の関係をたどっている。この文章はのちに加筆・訂正され、西嶋憲生編『映像表現のオルタナティヴ――一九六〇年代の逸脱と創造』(森話社、2005)に収録された[註2]。
 しかし、もしいま「日本実験映画史」を書くとしたら、「劇場の三科」ではなく「色彩音楽」からはじめるであろう。色彩音楽とは、ピアノやオルガンなどの楽器に連動して抽象的な色光の運動を投影するパフォーマンス公演のことである。色彩音楽の起源は、18世紀初頭のフランスで誕生したルイ・ベルトラン・カステルの「視覚クラヴサン」といわれている。カステルは数学者、物理学者で、神父でもあった。視覚クラヴサンとは、鍵盤と連動して色つきガラスを通した光を投影する楽器である(図)。アイデアを発表したのが1725年で、のちに試作機がつくられて評判になった。しかし、色彩音楽が本格化するのは20世紀に入ってからで、前衛芸術と結びついて広く発展した。
 色彩音楽は、日本でも1920年代初頭からさかんに紹介された(「色彩楽」とも呼ばれた)。やはり前衛芸術(新興芸術と呼ばれた)と結びつき、さまざまな芸術が取り上げている。興味深いのは、色彩音楽を実践した日本人がいたことである。情報が曖昧で具体的なことはまったくわからないのだが、わたしはこの実践を「日本実験映画史」の最初に位置づけることができると思った。
 実をいうと、色彩音楽を試みた日本人がいたらしいことは以前からわかっていた。しかし、あまりに情報が不確かなため、いままで取り上げなかった。その後、新しい事実を発見したわけではないのだが、色彩音楽をめぐる文化的な背景が明らかになったので、このことについて書いてみたい。ただし、わたし自身調べている最中で、あくまで中間報告であることは断っておきたい。

【註】
[1] 西村智弘「日本実験映像史①:劇場の三科とダダ映画」『あいだ』87号(2003年3月)、あいだの会。
[2] 岩本憲児「八面六臂の芸術家」(『村山知義 劇的先端』森話社、2012)では、「吉田謙吉のフィルム「釦」に関しては、その後、新たな論考が発表された」として、わたしの論文「劇場の三科とダダ映画」をあげている。
(西村智弘) 2024.10執筆



色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載2 色彩音楽と日本
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[図版] トーマス・ウィルフレッドの〈クラヴィルックス〉

改めて色彩音楽がさかんになるのは19世紀末頃からで、何人もの芸術家が実演している。とくに1920年代は前衛芸術の時代で、色彩音楽はさまざまな前衛芸術と結びついて発展した。日本では、1910年代後半から色彩音楽が伝わっている。当時紹介された色彩音楽には主に次のようなものがあった。
 第一に、イギリスの画家のアレクサンダー・ウォレス・リミントンが、1893 年に動くカーテンに色光を投影するカラーオルガンを開発したことである。第二に、ロシアの作曲家アレクサンダー・スクリャービンが《プロメテウス――火の詩》(1910)のスコアに色光ピアノの使用を記入したことで、これはリミントンの影響だった。1911年の初演のときは色彩ピアノが故障して実現できなかったが、1915年に譜面通りの演出がおこなわれた。
 第三は、アメリカのトーマス・ウィルフレッドが1920年頃に「クラヴィルックス」を開発したことで、鍵盤と連動した光のパフォーマンスが評判になった。第四は、ハンガリーのピアニストで作曲家のアレクサンダー・ラスローがカラーオルガンをつくり、1925年から翌年にかけてヨーロッパを巡業したことである。
 色彩音楽は照明による演出であって、どこまで映像と呼べるのかという問題があるが、わたしは、映画以前に存在した広義の映像と考えたい。実際、色彩音楽の実演はかなり映像的で、たとえば巨大スクリーンに投影されたクラヴィルックスは映画のように見える(図)。また色彩音楽は、のちの抽象アニメーションを準備する側面があった。
 日本にはじめて色彩音楽を紹介したのが誰かは不明だが、早い時期の論者に美術評論家の園頼三がいる。『美術新報』1917年10月号から長期連載された園の「カンディンスキイ論」では、1918年1月号で色彩音楽をテーマに掲げ、リミントンやスクリャービンなどを詳しく論じており、その後もたびたび色彩音楽に言及した。なぜ抽象画家のワリシー・カンディンスキーと色彩音楽が結びつくかといえば、彼が書いた舞台劇《黄色い響き》に色彩音楽が応用されたからである。これは、スクリャービンから示唆されたものだった[1]。
 リミントンとスクリャービンに言及した文章は多い。たとえば『週刊朝日』1922年5月14日号に掲載された本野精吾の「Colour- music 色の音楽」は、両者の色譜を比較したもので、短い文章ながら頻繁に引用された。ウィルフレッドがクラビルックスを開発したこともすぐに伝わっている。『明星』1922年4月号に掲載されたスタアク・ヤングの「色彩楽(特にヰルフレツドのクラヰ゛ルツクスに就て)」は、長文の論文で関心の高さを示している。

【註】
[1] 1912年にカンディンスキーとフランツ・マルクが創刊した年刊誌『青騎士』に掲載されたレオナード・サバネーエフの「スクリャービンの《プロメテウス》」は、カンディンスキーが共同で訳出した論文で、色彩音楽を詳しく論じている。《黄色い響き》のシナリオが掲載されたのも同じ号だった。
(西村智弘ー2024.10)

色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載3 本野精吾と色彩音楽 
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【図版】 神原泰《スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す》1922
 
 1920年代の日本では、色彩音楽に対する関心が高まるなか、みずから試作する芸術家が登場している。わたしは先に本野精吾の「Color music 色の音楽」に触れたが、その最後に「私は過般一つの小さい試みとして優れた楽曲と色光の合奏を試みました」と書かれていた。「色光の合奏」とあるので、なんらかの形で色彩音楽を実演したと考えられる。文書が発表された1922年頃の出来事と思われるが、どこで発表されたのか、どの音楽を使ったのか、どのように色光を実現したのかなど、詳しいことはわからない。
 本野は、日本におけるモダニズム建築の先駆者である。建築家の彼がなぜ色彩音楽を試みたのか。当時、スクリャービンが色彩音楽を応用したことは知られていたので(図)、本野が参照したのもおそらくスクリャービンである。もしそうであるなら、本野とスクリャービンを結びつけたのは作曲家の山田耕筰であろう。本野と山田はドイツ留学中からの知り合いで、帰国後は活動をともにすることがあった。
 1913年に山田は、帰国の途中でモスクワに寄ったとき、偶然に学生が演奏するスクリャービンの詩曲を聴いた。このときの衝撃は相当だったようで、演劇に進もうかと逡巡していた山田をいっきに音楽に引き戻している。山田はスクリャービンに会うことができなかったが、「恩師」と呼んで慕っていた。山田が聴いた詩曲は、神秘主義に傾倒したあとの曲だったものの、色彩音楽とは無関係である。1916年に山田は、大黒田元雄の演奏会「スクリアビンとデビュッツシイの夕」(東京基督教青年会館)で、はじめて《プロメテウス》を聴いた。また大黒田は、『印象と感想』(音楽と文学社、1916)などの著書で《プロメテウス》の色彩音楽を解説しており、これが山田に影響を与えているだろう。
 山田は、異なる芸術ジャンルの融合する「融合芸術」を提唱した。彼は留学中に舞踏を学び、帰国後は舞踏詩や舞踏詩劇のために作曲した。彼にとって舞踏詩は「音楽と運動の融合」であったが、さらに舞踏詩を「色彩や香気との融合にまで押し進めて行き度いと思つてゐる」[1]と書いている。彼は、音楽と色彩の融合を想定していたと考えられる。
 山田は、本野に作品発表の機会を依頼し、1917年に京都で演奏会が実現した。この演奏会をきっかけに同年に結成されたのが「京都音楽同好会倶楽部」である。主な活動は西洋音楽の演奏と研究で、本野は音楽の研究者、演奏家として参加した[2]。本野が色彩音楽を発表したのはこの倶楽部だろうか。色彩音楽を実演した記録は見つかっていないようだが、本野の資料がアーカイブ化されているので、調査が進めば具体的なことが明らかになるはずである。

【註】
[1] 山田耕筰「綜合芸術より融合芸術へ」『詩と音楽』1923年1月号。
[2] 本野と音楽の関係については、高嶋瑤子「本野精吾と京都の西洋音楽の受容」(『建築家・本野清吾展―モダンデザインの先駆者―』(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2010)を参照。
(西村智弘ー2024.11執筆)

色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載4 遠山静雄と色彩音楽
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【図版】 仲田定之助《ファリフォトン舞台形象》1927

 早い時期から色彩音楽を研究した人物に、舞台照明家の遠山静雄がいた。遠山が色彩音楽を知ったのは、1915年に《プロメテウス》が色彩音楽つきで演奏された記事を海外の雑誌で読んだからである。彼が最初に色彩音楽に言及したのは、本名の久保田静雄で発表した『読売新聞』1920年12月12日の「色と音との不一致点に就て」で、スクリャービンやリミントンを論じつつ、色彩音楽を演劇や舞踏と組み合わせることで「新しい綜合芸術」が生まれる可能性を説いていた。綜合(総合)芸術への志向は、山田耕筰や本野精吾にも共通する態度である。 
 『東京朝日新聞』1922年9月11日(月曜附録)に掲載された遠山の「光線芸術漫談」は、クラヴィルックスの開発に触発されたエッセイだが、そこに「わたくしどもが数人の若い芸術家と上野の森に集まつて全く斯様な色彩楽の夢を見てから既に三年になる」と書かれていた。「夢を見て」とあるので、色彩音楽を実演したわけではないが、構想はしていたらしい。「数人の若い芸術家」とは、土方与志らが参加した「トンボヤの会」のことだろうか。のちに遠山は、舞台の照明に色彩音楽を応用している。
 遠山は戦後も色彩音楽の研究を続けたが、「一九一五年以来六八年間この様子を見て来て、絶対説明出来る法則が見出せないとすれば、こゝにかような研究を持続することの意義を喪失し、放擲せざるを得ない段階に達した」[1]と書いている。結局、研究を断念したようだ。一方、戦後も色彩音楽の研究を進めたのは、デザイナーの斎藤佳三である。斎藤は東京音楽学校出身であり、山田の1級上の先輩で友人同士だった。斎藤が1952年に「有鍵楽器の彩光投写装置」という色彩オルガンの特許を取得したのは[2]、1920年代の綜合芸術の夢を追い続けた結果だろう。
 1920年代に遠山は、築地小劇場を拠点に活動した。新興美術運動は築地小劇場と縁が深ったが、色彩音楽とも無関係ではない。たとえば、「アクション」「マヴォ」などに参加した神原泰の《スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す》(1922)は、日本における最初期の抽象絵画で、音楽の視覚化を試みている。「未来派美術協会」の木下秀(秀一)は、デ・ブリユックとの共著『未来派とは? 答へる』(中央美術社、1923)で、色彩音楽を詳しく論じていた。「三科」などに参加した仲田定之助の《ファリフォトン舞台形象》(1927、図)は、色彩、光線、形態、音楽を融合した純粋抽象の舞台である。仲田が『東京朝日新聞』1927年5月30日、31日に連載した作品解説では、関連する芸術としてラースローやルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックの色彩音楽をあげていた。

【註】
[1]遠山静雄『舞台照明とその周辺』島津書房、1986。
[2]「有鍵楽器の彩光投写装置」については、『芸大コレクション展 齋藤圭三の奇跡-大正・昭和の総合芸術の試み-』(東京芸術大学大学美術館、2006)を参照。

(西村智弘-2024.12)