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色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載10 内藤耕次郎の色彩音楽
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【図版】荻野茂二『RHYTHM(リズム)』1935
 
 戦前の日本には抽象アニメーションを制作した作家もいた。ただし作品が現存するは、1930年代に入って荻野茂二(図)らが登場してからである。ここでは、記録しか残っていない1920年代の作品について考えてみたい。

 最初に抽象アニメーションを制作したのは田中喜次であろうか。のちに田中は商業映画に進出するが、元は9.5ミリで制作するアマチュア映画作家だった。彼は、アマチュア作家のなかで早くからアニメーションを手がけた一人である。また、早くから前衛映画を制作したアマチュア作家で、抽象アニメーションを制作したといわれる。おそらく1920年代末頃だと思われるが、タイトルや制作年などは不明である。

 内藤耕次郎は心理学者で、研究のために映画を用いたが、学者になる以前の1920年代末頃から抽象アニメーションを制作した。映画評論家の岩崎昶は、東京大学で内藤と同級で、寮も同室だった。ただし、学生時代の内藤は映画に関心をもっていなかったようである。

 内藤は、共感覚の持ち主だった。共感覚とは、ある感覚が刺激されると別の種類の感覚が発動することである。彼の場合は、音楽を聴くとそれが色の乱舞となって現われたという。そもそも彼が映画を制作したのは、「自分が音楽をきくとたえず見るけんらんたるあの絵模様を芸術として表現しようと企てた」[1]からだが、そのような映画に金を出す人もいないので、「結局私自身でフィルムを一駒一駒着色しつつ描き上げていったり、自分の部屋に動画撮影装置をしつらえてコツコツと製作するよりほかはなかった」。しかし内藤の試みは、美学者の中井正一の目に留まり、彼の自宅の一室を借りて映画の制作を続けている。

 中井や美学者の辻部政太郎が中心になり、「貴志学術映画研究所」を立ち上げている。ここには、内藤のほかに音楽家の貴志康一、カラーフィルムの研究者の安藤春蔵が参加した。グループ名に「貴志」と付いているのは、貴志康一の父親が出資したことによる。この研究所は、1932年に中井が制作した『十分間の思索』、辻部が制作した『海の詩』を公開した。

 辻部によると『海の詩』は、瀬戸内の風景を「純粋なアヴァンギャルド映画」[2]として実現する構想だったが、安藤がもっとストーリーを入れろと注文したため、「初志とは大分かけ離れた作品に変える方針」でシナリオを書き改めた。内藤は、『海の詩』で色彩音楽を担当している。作品が現存しないためどのようなものかわからないが、『大阪毎日新聞』1930年10月11日の「美学映画の誕生」では、「音階描写、心理描写を色彩によつてやる映画の前衛的試み」と説明されている。どうやら抽象アニメーションで音楽を表現するだけでなく、登場人物の心理を表現したようである。

【註】

[1]内藤耕次郎「心理学への道」末川博編『学問の周辺』有信堂、1968
[2]辻部政太郎「『世界文化』と『土曜日』のころ(第二回)」『人民』1985年8・9月合併号(西村智弘―2025.4)



B/N(連載バックナンバー)


色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載1:色彩音楽とは何か
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【図版】カステル神父「視覚クラヴサン」

20年以上も前のことだが、わたしはある雑誌に「日本実験映像史」を連載したことがある。連載の一回目は「劇場の三科とダダ映画」であった[註1]。「劇場の三科」は、1925年5月30日に前衛美術グループの「三科」が築地小劇場でおこなったパフォーマンス公演で、大正期の新興美術運動でもっともラディカルな試みといわれる。なぜ「日本実験映像史」で取り上げたかというと、演目のひとつである吉田健吉の『釦(ぼたん)』のなかで「ダダ映画」と銘打った作品が上映されたからである。『釦』は舞台劇だが、前衛映画を組み合わせる実験的な試みをおこなっていた。
 『釦』のフィルムは現存しないが、作品に関する証言は残っていた。わたしは、『釦』がどのような作品かを振り返るとともに、「三科」の中心メンバーだった村山知義と映画の関係をたどっている。この文章はのちに加筆・訂正され、西嶋憲生編『映像表現のオルタナティヴ――一九六〇年代の逸脱と創造』(森話社、2005)に収録された[註2]。
 しかし、もしいま「日本実験映画史」を書くとしたら、「劇場の三科」ではなく「色彩音楽」からはじめるであろう。色彩音楽とは、ピアノやオルガンなどの楽器に連動して抽象的な色光の運動を投影するパフォーマンス公演のことである。色彩音楽の起源は、18世紀初頭のフランスで誕生したルイ・ベルトラン・カステルの「視覚クラヴサン」といわれている。カステルは数学者、物理学者で、神父でもあった。視覚クラヴサンとは、鍵盤と連動して色つきガラスを通した光を投影する楽器である(図)。アイデアを発表したのが1725年で、のちに試作機がつくられて評判になった。しかし、色彩音楽が本格化するのは20世紀に入ってからで、前衛芸術と結びついて広く発展した。
 色彩音楽は、日本でも1920年代初頭からさかんに紹介された(「色彩楽」とも呼ばれた)。やはり前衛芸術(新興芸術と呼ばれた)と結びつき、さまざまな芸術が取り上げている。興味深いのは、色彩音楽を実践した日本人がいたことである。情報が曖昧で具体的なことはまったくわからないのだが、わたしはこの実践を「日本実験映画史」の最初に位置づけることができると思った。
 実をいうと、色彩音楽を試みた日本人がいたらしいことは以前からわかっていた。しかし、あまりに情報が不確かなため、いままで取り上げなかった。その後、新しい事実を発見したわけではないのだが、色彩音楽をめぐる文化的な背景が明らかになったので、このことについて書いてみたい。ただし、わたし自身調べている最中で、あくまで中間報告であることは断っておきたい。

【註】
[1] 西村智弘「日本実験映像史①:劇場の三科とダダ映画」『あいだ』87号(2003年3月)、あいだの会。
[2] 岩本憲児「八面六臂の芸術家」(『村山知義 劇的先端』森話社、2012)では、「吉田謙吉のフィルム「釦」に関しては、その後、新たな論考が発表された」として、わたしの論文「劇場の三科とダダ映画」をあげている。
(西村智弘) 2024.10執筆



色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載2 色彩音楽と日本
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[図版] トーマス・ウィルフレッドの〈クラヴィルックス〉

改めて色彩音楽がさかんになるのは19世紀末頃からで、何人もの芸術家が実演している。とくに1920年代は前衛芸術の時代で、色彩音楽はさまざまな前衛芸術と結びついて発展した。日本では、1910年代後半から色彩音楽が伝わっている。当時紹介された色彩音楽には主に次のようなものがあった。
 第一に、イギリスの画家のアレクサンダー・ウォレス・リミントンが、1893 年に動くカーテンに色光を投影するカラーオルガンを開発したことである。第二に、ロシアの作曲家アレクサンダー・スクリャービンが《プロメテウス――火の詩》(1910)のスコアに色光ピアノの使用を記入したことで、これはリミントンの影響だった。1911年の初演のときは色彩ピアノが故障して実現できなかったが、1915年に譜面通りの演出がおこなわれた。
 第三は、アメリカのトーマス・ウィルフレッドが1920年頃に「クラヴィルックス」を開発したことで、鍵盤と連動した光のパフォーマンスが評判になった。第四は、ハンガリーのピアニストで作曲家のアレクサンダー・ラスローがカラーオルガンをつくり、1925年から翌年にかけてヨーロッパを巡業したことである。
 色彩音楽は照明による演出であって、どこまで映像と呼べるのかという問題があるが、わたしは、映画以前に存在した広義の映像と考えたい。実際、色彩音楽の実演はかなり映像的で、たとえば巨大スクリーンに投影されたクラヴィルックスは映画のように見える(図)。また色彩音楽は、のちの抽象アニメーションを準備する側面があった。
 日本にはじめて色彩音楽を紹介したのが誰かは不明だが、早い時期の論者に美術評論家の園頼三がいる。『美術新報』1917年10月号から長期連載された園の「カンディンスキイ論」では、1918年1月号で色彩音楽をテーマに掲げ、リミントンやスクリャービンなどを詳しく論じており、その後もたびたび色彩音楽に言及した。なぜ抽象画家のワリシー・カンディンスキーと色彩音楽が結びつくかといえば、彼が書いた舞台劇《黄色い響き》に色彩音楽が応用されたからである。これは、スクリャービンから示唆されたものだった[1]。
 リミントンとスクリャービンに言及した文章は多い。たとえば『週刊朝日』1922年5月14日号に掲載された本野精吾の「Colour- music 色の音楽」は、両者の色譜を比較したもので、短い文章ながら頻繁に引用された。ウィルフレッドがクラビルックスを開発したこともすぐに伝わっている。『明星』1922年4月号に掲載されたスタアク・ヤングの「色彩楽(特にヰルフレツドのクラヰ゛ルツクスに就て)」は、長文の論文で関心の高さを示している。

【註】
[1] 1912年にカンディンスキーとフランツ・マルクが創刊した年刊誌『青騎士』に掲載されたレオナード・サバネーエフの「スクリャービンの《プロメテウス》」は、カンディンスキーが共同で訳出した論文で、色彩音楽を詳しく論じている。《黄色い響き》のシナリオが掲載されたのも同じ号だった。
(西村智弘ー2024.10)

色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載3 本野精吾と色彩音楽 
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【図版】 神原泰《スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す》1922
 
 1920年代の日本では、色彩音楽に対する関心が高まるなか、みずから試作する芸術家が登場している。わたしは先に本野精吾の「Color music 色の音楽」に触れたが、その最後に「私は過般一つの小さい試みとして優れた楽曲と色光の合奏を試みました」と書かれていた。「色光の合奏」とあるので、なんらかの形で色彩音楽を実演したと考えられる。文書が発表された1922年頃の出来事と思われるが、どこで発表されたのか、どの音楽を使ったのか、どのように色光を実現したのかなど、詳しいことはわからない。
 本野は、日本におけるモダニズム建築の先駆者である。建築家の彼がなぜ色彩音楽を試みたのか。当時、スクリャービンが色彩音楽を応用したことは知られていたので(図)、本野が参照したのもおそらくスクリャービンである。もしそうであるなら、本野とスクリャービンを結びつけたのは作曲家の山田耕筰であろう。本野と山田はドイツ留学中からの知り合いで、帰国後は活動をともにすることがあった。
 1913年に山田は、帰国の途中でモスクワに寄ったとき、偶然に学生が演奏するスクリャービンの詩曲を聴いた。このときの衝撃は相当だったようで、演劇に進もうかと逡巡していた山田をいっきに音楽に引き戻している。山田はスクリャービンに会うことができなかったが、「恩師」と呼んで慕っていた。山田が聴いた詩曲は、神秘主義に傾倒したあとの曲だったものの、色彩音楽とは無関係である。1916年に山田は、大黒田元雄の演奏会「スクリアビンとデビュッツシイの夕」(東京基督教青年会館)で、はじめて《プロメテウス》を聴いた。また大黒田は、『印象と感想』(音楽と文学社、1916)などの著書で《プロメテウス》の色彩音楽を解説しており、これが山田に影響を与えているだろう。
 山田は、異なる芸術ジャンルの融合する「融合芸術」を提唱した。彼は留学中に舞踏を学び、帰国後は舞踏詩や舞踏詩劇のために作曲した。彼にとって舞踏詩は「音楽と運動の融合」であったが、さらに舞踏詩を「色彩や香気との融合にまで押し進めて行き度いと思つてゐる」[1]と書いている。彼は、音楽と色彩の融合を想定していたと考えられる。
 山田は、本野に作品発表の機会を依頼し、1917年に京都で演奏会が実現した。この演奏会をきっかけに同年に結成されたのが「京都音楽同好会倶楽部」である。主な活動は西洋音楽の演奏と研究で、本野は音楽の研究者、演奏家として参加した[2]。本野が色彩音楽を発表したのはこの倶楽部だろうか。色彩音楽を実演した記録は見つかっていないようだが、本野の資料がアーカイブ化されているので、調査が進めば具体的なことが明らかになるはずである。

【註】
[1] 山田耕筰「綜合芸術より融合芸術へ」『詩と音楽』1923年1月号。
[2] 本野と音楽の関係については、高嶋瑤子「本野精吾と京都の西洋音楽の受容」(『建築家・本野清吾展―モダンデザインの先駆者―』(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2010)を参照。
(西村智弘ー2024.11執筆)

色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載4 遠山静雄と色彩音楽
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【図版】 仲田定之助《ファリフォトン舞台形象》1927

 早い時期から色彩音楽を研究した人物に、舞台照明家の遠山静雄がいた。遠山が色彩音楽を知ったのは、1915年に《プロメテウス》が色彩音楽つきで演奏された記事を海外の雑誌で読んだからである。彼が最初に色彩音楽に言及したのは、本名の久保田静雄で発表した『読売新聞』1920年12月12日の「色と音との不一致点に就て」で、スクリャービンやリミントンを論じつつ、色彩音楽を演劇や舞踏と組み合わせることで「新しい綜合芸術」が生まれる可能性を説いていた。綜合(総合)芸術への志向は、山田耕筰や本野精吾にも共通する態度である。 
 『東京朝日新聞』1922年9月11日(月曜附録)に掲載された遠山の「光線芸術漫談」は、クラヴィルックスの開発に触発されたエッセイだが、そこに「わたくしどもが数人の若い芸術家と上野の森に集まつて全く斯様な色彩楽の夢を見てから既に三年になる」と書かれていた。「夢を見て」とあるので、色彩音楽を実演したわけではないが、構想はしていたらしい。「数人の若い芸術家」とは、土方与志らが参加した「トンボヤの会」のことだろうか。のちに遠山は、舞台の照明に色彩音楽を応用している。
 遠山は戦後も色彩音楽の研究を続けたが、「一九一五年以来六八年間この様子を見て来て、絶対説明出来る法則が見出せないとすれば、こゝにかような研究を持続することの意義を喪失し、放擲せざるを得ない段階に達した」[1]と書いている。結局、研究を断念したようだ。一方、戦後も色彩音楽の研究を進めたのは、デザイナーの斎藤佳三である。斎藤は東京音楽学校出身であり、山田の1級上の先輩で友人同士だった。斎藤が1952年に「有鍵楽器の彩光投写装置」という色彩オルガンの特許を取得したのは[2]、1920年代の綜合芸術の夢を追い続けた結果だろう。
 1920年代に遠山は、築地小劇場を拠点に活動した。新興美術運動は築地小劇場と縁が深ったが、色彩音楽とも無関係ではない。たとえば、「アクション」「マヴォ」などに参加した神原泰の《スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す》(1922)は、日本における最初期の抽象絵画で、音楽の視覚化を試みている。「未来派美術協会」の木下秀(秀一)は、デ・ブリユックとの共著『未来派とは? 答へる』(中央美術社、1923)で、色彩音楽を詳しく論じていた。「三科」などに参加した仲田定之助の《ファリフォトン舞台形象》(1927、図)は、色彩、光線、形態、音楽を融合した純粋抽象の舞台である。仲田が『東京朝日新聞』1927年5月30日、31日に連載した作品解説では、関連する芸術としてラースローやルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックの色彩音楽をあげていた。

【註】
[1]遠山静雄『舞台照明とその周辺』島津書房、1986。
[2]「有鍵楽器の彩光投写装置」については、『芸大コレクション展 齋藤圭三の奇跡-大正・昭和の総合芸術の試み-』(東京芸術大学大学美術館、2006)を参照。
(西村智弘-2024.12)

色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載5 色彩音楽から抽象映画へ
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【図版】 ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マック《反射による色彩遊戯》1923

 色彩音楽は、抽象的な色光の運動を投影するものだったから、スクリーンに運動イメージを投影する映画と結びつくのは必然的だった。色彩音楽は、抽象映画(抽象アニメーション)になった。色彩音楽と同様に抽象映画は、前衛芸術運動と連動して発展している。

 最初に抽象映画を制作したのはイタリアの未来派である。未来派の画家だったアルナンド・ジンナとブルーノ・コッラは、色彩音楽の実践としてライト・オルガンの開発を試みるが、その後、映画による「色彩交響曲」に着手した。しかし、コマ撮りができるカメラが見つからなかったため、直接フィルムを彩色し、1910年から1914年にかけて『色彩和音』『4つの色彩による効果の研究』『春の歌』『花々』という4本の抽象アニメーションを制作したといわれる。しかし、1943年のミラノ爆撃で破壊され、作品が現存していない。

 現存する最古の抽象映画は、ドイツで生まれた「絶対映画」である。絶対映画は、カンディンスキーが抽象絵画を「絶対絵画」と呼んだことからの転用で、純粋抽象のアニメーションを指す。作品としては、ヴァルター・ルットマンの『光の遊戯:オパスⅠ』、ハンス・リヒターの『リズム21』(ともに1921)、ヴィキング・エッゲリングの『対角線交響曲』(1924)が知られている。モノクロでサイレントの映画が主流だった当時、ルットマンはフィルムを彩色し、友人のマックス・ブティングが作曲した音楽をつけていた。リヒターとエッゲリングはダダイズムの画家で、音楽を絵画で表現する探究から映画に向かっている。映画はモノクロのサイレントだが、音楽を意識していたことはタイトルから明らかである。

 絶対映画を色彩音楽と結びつける発想は早くからあった。たとえばモホリ=ナギは、〈バウハウス叢書〉の『絵画・写真・映画』(初版は1925)で、スクリャービンの《プロメテウス》やウィルフレッドのクラビルックスに言及し、「この方向での重要な進歩」としてルットマン、エッゲリング、リヒターの抽象アニメーションをあげた。同書でナギが詳しく論じたルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックの《反射よる色彩遊戯》(図、1923)は、当時バウハウスでおこなわれたスライドによる色彩音楽のパフォーマンスである。

 絶対映画はそれまで上映される機会がほとんどなかったが、1925年5月3日と11日、ウーフォの主催で〈絶対映画〉と題した特集上映[1]がベルリンで開催されて話題となった。この上映会によって絶対映画という名称が広まったのであり、絶対映画の存在を世に知らしめる役割果たした。プログラムは、ルットマン、リヒター、エッゲリングの作品の他に、マックの《反射による色彩遊戯》の公演、ルネ・クレールの《幕間》、フェルナン・レジェの《バレエ・メカニック》(《反射による色彩遊戯》以外は、ともに1924)といった純粋映画も上映された。

【註】

  • 「国際アヴァンギャルド映画上映会」などと呼ばれることもある。
    (西村智弘―2025.1)

    色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
    連載6 日本の抽象映画論者
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図版:ヴァルター・ルットマン『光の遊戯:オパスⅠ』1921

 戦前の日本で絶対映画(図)は公開されなかったが、海外で絶対映画が制作されたことは知られていた。しかしそれ以前から、日本に抽象映画を提唱した論者が何人もいたことは忘れられた事実に属する[1]。呼び方もさまざまで、岩崎昶の「絶対映画」、全田健吉の「造形交響楽」、中野頃保の「純粋意識的映画」、清水光の「純感覚映画」、武田忠哉の「色彩音楽」などがあり、1920年代前半のほぼ同時期に提唱された。彼らの抽象映画には、いくつかの特徴を認めることができる。

 第一に、ドイツで絶対映画がつくられた事実を知らずに抽象映画を提唱していたことである。論者たちは、海外の状況と無関係に独自の論理で抽象映画を構想した。第二に、論者が映画評論家で実作者ではなかったことである。抽象映画は、映画史あるいは映画理論の帰結であり、来るべき未来の映画として空想された。それはあくまで想像の産物で、実際に制作することまで考えていなかった。第三に、色彩音楽の延長に抽象映画を考えていたことである。絶対映画の存在を知らずに抽象映画を提唱できたのは、色彩音楽が念頭にあったからだった。映画の分野で最初に色彩音楽に言及したのは、のちに映画プロデューサーとなる森岩雄である。森は、『キネマ旬報』に連載した「第八芸術貧燈録」の13回目「色彩及び音楽の活動写真に対する関係資料二三(二)」(1922年8月1日号)で、ウィルフレッドのクラビルックスを解説し、「映画芸術の領域を広く大きくして行く一方法として十分に研究さるべきものではないかと考へられる」と書いた。ただし彼は、映画への応用を提案しただけで抽象映画を提唱したわけではない。第四に、抽象映画をアニメーションと考えていなかったことである。ドイツの絶対映画は抽象アニメーションだったが、日本の論者にはコマ撮りで制作するという発想がなかった。そもそも当時アニメーションという言葉はなく、のちに一般的する「漫画映画」も知られておらず、「凸坊新画帖(帳)」などと呼ばれていた。海外の漫画映画の短編は上映されていたものの、国産初の漫画映画は1917年に公開されたばかりで、アニメーションに対する認識が低かった。また、ギャグ中心の漫画映画と純粋抽象の映画ではあまりに内容が違いすぎて、同じ技法で制作する発想をもつことができなかった。第五に、抽象映画を劇映画の発展と考えていたことである。それは、当時流行した表現主義映画や無字幕映画などの延長であり、劇映画の進化した姿として想定されていた。ここには、レオン・ムーシナックの「映画=リズム」論のような映画理論が話題になったことも影響しているだろう。

【註】

[1] わたしは、このテーマの研究発表を2019年の〈日本映像学会第45大会〉でしたことがある。西村智弘「1920年代の日本における抽象映画論者――岩崎昶の「絶対映画」とその周辺」『日本映像学会第45大会概要集』参照。
(西村智弘ー2025.1)

色彩音楽と絶対映画:日本実験映像史の第一章
連載7 岩崎昶の絶対映画
本文―1880w

【図版】 ハンス・リヒター『リズム21』1921

 日本で最初に抽象映画を提唱したのは、ドイツ映画に詳しい映画評論家の岩崎昶である。岩崎といえば、のちに「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」の委員長になり、左翼系映画人を代表する存在となるが、若き日の彼は、村山知義のアトリエに日参するアヴァンギャルド芸術の信奉者だった。岩崎は森岩雄から『キネマ旬報』を紹介され、同誌1924年10月11日と21日号に「表現派の将来」を連載した。東京大学の学生だった岩崎のデビュー論文で、表現主義映画から抽象映画が生まれるという自説を展開している。

 ドイツ表現主義映画を代表するロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』(1919)は、日本でも1921年に公開されて評判になった。しかし岩崎によれば、それは「表現派の絵画から舞台劇に応用されたテクニックを映画劇のディテールにのみ導入」した「似非表現主義」にすぎない。それに対して「看板に偽りのない表現主義映画」として提案したのが、すべてを「色彩のシムフォニー」に還元した抽象映画であった。岩崎は、「殊に色彩音楽といふものが提唱されてから既に久しい今日、それが表現派映画といふ形をとつて出現し来らない事を寧ろ不思議に思ふのである」と書いている。彼にとって抽象映画は色彩音楽の延長にあった。

 岩崎が論文を発表した1924年は、ベルリンで絶対映画(図)の上映会がおこなわれる以前である。彼は、絶対映画の存在を知らずに抽象映画を提唱したが、翌年にドイツの映画雑誌で絶対映画が上映された事実を知って喜んでいる。このことは、岩崎秋良のペンネームで発表した『映画往来』 1925年10月号の「絶対映画、他二項」に記されている。彼は絶対映画の上映会を報告しつつ、昨年『キネマ旬報』に発表した「表現派の将来」に触れ、「私の夢想が果して「痴人の夢」に止らなかつたことにつゝましい悦びを覚えてゐた」と述べた。

 その後岩崎は、抽象映画をドイツに倣って「絶対映画」と呼び、絶対映画の伝道者として振舞うようになる。彼は『映画往来』1927年3月号から、ルドルフ・クルツ『表現主義と映画』(1926)の「絶対芸術」の章を訳出した「絶対映画」の連載をはじめた。また、『MUSASHINO』同年同月号から「絶対映画への道」を連載し、絶対映画が生まれる歴史的な必然性を詳しく論じている。なお岩崎は、連載中に前衛映画のシナリオを発表したことがある。風景の実写から細かいショットのモンタージュになり、それが混沌となって最終的に絶対映画に到達する作品で、当時の映画理論を総動員したような内容だった。

 しかし、絶対映画に対する岩崎の関心は長く続かなかった。それは、彼が1929年にプロキノに参加したからである。プロキノが標榜したプロレタリア映画運動は、民衆の立場に立つ映画を推奨した。芸術至上主義な映画は批判の対象となり、とうぜん前衛映画も否定された。岩崎はそれまでの態度を翻し、率先して絶対映画を批判する立場を取っている。